MUSIC IS MAGIC!

V6とKinKi Kidsを愛でるジャニヲタ。主に彼らの音楽や、演出や照明についてのおはなしをします。「79年組尊い」が口癖。

「プラトニック」第3話・娘の初恋についての考察


プラトニック・第3話は、この回の劇中で沙良と青年との会話の中に登場した映画「死ぬまでにしたい10のこと」を観てからもう一度観たいと思っていたので、今日ようやくどちらも観ることができました。


映画は、劇中で語っていたように、青年と同じように手の施しようがない病を患い、余命宣告をされた女性が、死ぬまでにやりたいことを10個ノートに書いていき、それを実行していくというもの。映画の彼女は結婚していて、幼い娘が2人いる設定です。自分の命が長くなく、残された時間に限りがあるということを、女性は誰にも告げずに亡くなります。旦那さんにも、母親にも、もちろん娘たちにも、誰にも。この点が青年とは違うなあ、と映画を観ているときは思いましたが、後になって考えてみると、青年も自分が愛する彼女には別れを切り出した本当の理由を伝えていなかったのを思い出しました。その人を愛し大切に思うが故に、真意を伝えず秘密を自分の中だけに留めておく。その考え方を沙良は「傲慢な考え方だと思う」と表し、自分ならば愛する人にはそのようなことがもしあるならば伝えてほしい、と言っていました。青年と映画の女性がたまたま意見が一致しただけかもしれませんが、当事者(という言い方は適さないと思いますが…)からすると伝えたくないという考えが頭に浮かぶのかなあ、と。好きだから、大切に思っているからこそ、相手には迷惑をかけたくない。心配させたくない。でも、逆の立場に立つと、好きだから、大切に思っているからこそ、なんでも打ち明けてほしい。隠さないでほしい。一緒に乗り越えていきたい。これからも生きていく者と命のカウントダウンが刻々と迫っている者。どちらの意見が正しいかなんて決して答えが見つかる問題ではないけれど、でもどちらも相手を愛しているからこその思いであることに変わりはないと思うと、生きることと死ぬことは紙一重であるのかと思ってしまいます。相対する位置に存在するものなのに。


沙良に映画の話を振ったとき、結婚することをノートに書いていたのかと聞かれた青年は、結婚は相手もいることだから、と否定していました。ですが、もし映画の主人公のようにノートに書き留める行動をとっていなければ、わたしはそのようなものは書いていませんが、と前置きしそうなものなのに、と思いました。もし自分が書いていなければ、ノートに書くという行動に対して否定するはずなのに、結婚という項目は書いていない、とその点についてだけ否定していました。となると、青年も女性のように「死ぬまでにしたい10のこと」を書き、残された時間の中でひとつひとつ実行している最中なのかもしれません。彼が綴った「10のこと」には果たして何が書かれているのか。テツさんとの会話で自分探しだとか命の使い道という単語が出ていたような気がしますが(気 ですよ、気!間違っててもごめんなさいね!ほら!記憶力ないから!)、きっとそれも含まれているんだろうな。


あとひとつ、青年と映画の主人公との間でリンクしているように感じたものがあります。映画の主人公は余命宣告されたあと、今まで麻薬に手を染めたことはなかったけれど、世界中の麻薬を試してみたい、というニュアンスのことを口にしていました。もう人生最後だから、と思うと、今まで築いてきた平凡な生活をめちゃくちゃにしてしまうようなものに惹かれてしまうのかなあと。でもその後、彼女は麻薬に手を染めることはなく「10のこと」の達成に務めるわけですが。青年も病気がわかったあと、「昔の恋人に辛く当たり散らしてしまった」と明かしていますが、これも少し似ているような気がしました。いけないと分かっていることだけれど、その気持ちに反した行動が取りたくなる。死という、半ば非現実のようなものにいきなり直面させられると、そのような感情を生み出す。非現実的でありながら、でもそれを身近に感じて生活することは、わたしにはとても想像し得ない世界です。難しい、複雑、なんて言葉では到底表しきれないものです。



ここまで何度か「仕方ない」という言葉を使いたくなる場面がありましたが、あえて使わずに違う言葉を選んだり文章の構成を考えたりして書いてきました。「仕方ない」。第3話では和久、沙良、沙莉ちゃんの3人がそれぞれ話していました。前の2人が「仕方ない」と口にした場面に居合わせた青年は、その言葉がどこか引っかかるような口調で、幾度も繰り返していました。きっと青年も病気がわかってすぐは彼らと同じように「仕方ない」という言葉に逃げる生活を送っていたように思います。だって便利な言葉だから。「仕方ない」「しょうがない」と言っておけば、自分でも何かわからないけれど腑に落ちる気がする。腑に落ちた気になる。でもきっとあるとき気がついたのでしょう。残りわずかとなったこの人生を、「仕方ない」なんて簡単な言葉で片付けてしまってはいけない、と。それは自分でその答えを導き出したのか、外からの力が加わっているのかはわかりませんが、わたしはなんとなくテツさんの力が関係しているような気がしています。諦めにも似たその言葉は、便利でもあるけれど時に空っぽな存在にもなり得る。逃げ道を作らず、正々堂々と人生を全うしようとする青年の姿は、この先さらに周りの人たちを動かす存在になっていくのだろうなあと思います。


青年の病気のことを知って、「ショックだった」と話したり、青年との会話を受けて「もうすぐ亡くなる人の言葉は妙に説得力がある」と言う和久は、一番視聴者というか言ってしまえば普通の人たちに近い感覚の人間だなと思いました。観る人たちとドラマの中の世界を繋げる橋渡しのような存在だと思います。一番素直、といったほうが適しているかもしれません。視聴者の心の声を代弁してくれる彼がいるからこそ、ドラマの世界に置いて行かれずに視聴者は着いていくことができるような気がします。超甘党な彼が何を食べるのか、も毎週の楽しみにもなっている今日この頃です(笑)


毎回青年が作る香水が物語に色を添えていますが、何せわたしは香水やアロマには皆目興味がないので、香りという、映像から直接実際の世界に取り込み感じ取れる貴重な感覚がありません。実際にアロマが好きな人だったら、その香りがどんなものなのか、想像できたり試したりできていいなあ、とは思うのですが…。映像は視覚、聴覚のふたつからしか情報を得られないのに、そこに嗅覚という感覚もプラスされてさらに理解ができるような仕掛けが組み込まれているのにもったいないし、悔しいと思っています…。どんな配合なんだろう、すごく気になります。


先週ドラマが終わったあとに、つよしさんファンの方と「青年が堂本剛に見えるときがあるけど、でもそこにいるのは青年だし、でも堂本剛のようにも見えて…」というようなことをお話していました。最後の病室のシーンです。きっと共感してくださる方もいるかとは思いますが…。実際の世界とリンクしているように感じてしまうのは、本来あまり良くないことなのかもしれませんが、この回は本当にその感覚に何度も陥りました…。きっとこれからもまだまだありそう。



この第3話、映画も観たせいかいろいろ感じることが多すぎて第4話の放送前に感想書き終わらない、という一番避けたかった事態が起きてしまいました…。絶対4話観たらそっちでも思うことがあるのに…。でも第3話についてまだまだ書きたいので、またまとめたいと思います…。