MUSIC IS MAGIC!

V6とKinKi Kidsを愛でるジャニヲタ。主に彼らの音楽や、演出や照明についてのおはなしをします。「79年組尊い」が口癖。

「プラトニック」第5話・恋についての考察

こ、こんばんは…。プラトニック最終回もとうに終わりましたが こちらでの感想が第4話でストップしていることがなんとなくもやもやしておりまして、第5話が下書きに入ったままになっていたので 少し手を加えて上げておきます…。

最終回が終わったあと、だいぶ引きずりました。今でもたまにふと思い出すことがあります。夏休み中に残りも書けたら…いいなあ…(かなり弱気)まあ、待ってる人もいないと思いますので気ままに書きます。とりあえず、以下第5話の感想です。いや、これは違うでしょ!って内容でも、第5話終了後にまとめたものなのでさらっと流してくださいませ。

 

第5話、わたしとても好きです。(唐突)これまでもいろんな感情がそれぞれに渦巻いていて、複雑に絡み合っていたけれど、この回は特にその幅が広かったなあと感じました。好きです、とっても。観終わった直後、涙が溢れて溢れて止まらなかった、と放送後の自分メモに書いてありましたのでこちらにも記しておきます(笑)でも本当に止まらなかったんですよ…。ううっ…。

第5話に関して言うと、テレビの番組表であらすじをうっかり読んでしまったためにテツさんが亡くなってしまうことを放送前に知ってしまったので、楽しみが少し薄れた状態で観ていました。(とは言うものの、いざドラマが始まってしまってからは集中していたので、該当のシーンになるまではすっかり忘れていましたが。)かなりショックでした。病気がわかったあとに青年と出会い、それからの青年を支えてくれた大切な人だったから…。

 

青年には双子の弟がいる、ということも判明しました。自然と愛される人間である弟。第5話の予告で青年が写った写真が出てきましたが、あの写真を見たときに、青年とは何か違う、と違和感を持ちました。Twitterなどで、あれは青年ではなく堂本剛の笑顔だった!と言っている感想にもどうにも共感し得ませんでした。青年には双子の弟がいる、という事実を知ったとき、全てが繋がった感じがして心が揺さぶられました。ああ、そういうことか、あの笑顔は、堂本剛本人としてではもちろんなく、役者・堂本剛が演じる青年という役ででもなく、青年の双子の弟としての笑顔だったからなんだ、と。たった一瞬を切り取った写真一枚だけでも、その役になれる。なりきれる。役者ならば当たり前のことでは?という意見もあるかもしれないけれど、その違いが明確に表れていることに気づいたとき、演じるということはとても繊細な作業だなあと感じました。

わたしは正直言って、一般に言うようなお芝居の上手い下手はよくわかりません。わたしは素人だし、プロの人にとやかく言うのはちょっと、という気持ちもあるのですが、「上手い下手」の概念って人それぞれだと思うからです。

例えば、料理の上手い下手は、食べる人の好みの味付けであるかどうか、がかなり重要になってくると思うし、楽器の演奏など芸術的な部分の上手い下手は、聞く人の感性、そのときの感情によっても変わってくると思うし、という具合です。それを評価する人の感じ方、重要視するポイントを押さえているか、などの曖昧な規定で上手い下手が分けられるので、「わたしはこう思う」「わたしは好き」といったように、あくまでもわたしの意見として述べるように意識しています。ちなみに食べ物は「好き嫌い」ではなく、「好き」と「わたしの口には合わない」とわたしが言うようにしているのも同じです。 

上手い下手談義がしたかったのではなくて(笑)、つよしさんの演技について。表情の違い、しかも静止画での表現が素晴らしくて、的確で。そしてそれを自分が感じ取れたことがちょっと嬉しかったり(笑)微妙な感情の変化をくみ取るのは、演じるのは勿論、それを観る側もすごく神経を使うし、難しいなあと改めて思いました。

 

時系列がぐちゃぐちゃになってしまいますが、テツさんが暮らしていた家での青年のシーンについて。

「誰か居ないのか…この世界には…」

という台詞。たしかプレマップの後半の見どころでもこの部分が使われていたと思いますが、この場面とは…。死の恐怖に直面している青年の姿って、今まで描かれたことありましたっけ?(散々観て感想まで書いているというのにこの記憶力)でも、そんな気持ちはとうに克服したと思っていた、って言っているのでやっぱりないのかな…。

この台詞はラストシーンにも深く関わってきますね。心の声 として。はじめ沙良が「声が聞こえたの。あなたのきっと、心の声が」と言ったときは、半信半疑というか、少し呆れたというか、そんなはずはない、というのか、疑い?の気持ちからか半笑いにも似た表情をしていた青年ですが、その聞こえた声が「誰かいないの、って。この世界に、自分の他に誰か」と聞いてから。その感情の変化が流れるようで すごく心に響きました。あ、でもその前に沙良は「あなたに恋をしているんですって」「そう、きっと始まりからあなたに恋をしていたんだと思う」と打ち明けていて、もしかしたら青年も同じことを感じていたからそれを確認したかった、というのか…。うーん、難しい。と思っていたら先日(2014年7月12日)のFashion & Music Bookでこのシーンを「ふいに訪れる解放」とつよしさんが表現していたことを思い出しました。すごく端的に青年の置かれた立場を表しているな、と思ったんです。今まで縛られていたものから解放された安堵の表情。すごく切なくて、美しくて。

 

感情の流れで素晴らしいなと思ったのは、沙莉ちゃんとの病室のシーンでも。テツさんが亡くなったあと、生と死に直面した青年が沙莉ちゃんと向かい合う場面。これまで「わたし」という一人称で自らを呼んできた青年が、「僕」と呼んでいた場面が第5話予告でも使われていて、どういう心理状態から呼び方が変化したのだろう、と少し気になっていました。上手く言葉にできませんが、「わたし」と呼ぶときは偽りの自分、ではないですが、作った自分というか、本来の今までの青年ではない気がして、「僕」と呼ぶときは人としての弱さが表れているような気がします。6話、7話と話が進んでいくと、「俺」という一人称も出てくるので、周りの人との関係性と青年の心の中や考え方がこの呼び方ひとつでも表現されていて深いなあ、と思うばかりです。

彼女の手は自分からは繋いだことがないかもしれない、と言っていた青年が、ラストのシーンでは青年のほうから握り返していたところにも、やっぱり心情の変化が見られました。

 

プラトニックの感想を書くために、1回はリアルタイムで観て、最低あと1回は録画を観直してからまとめているのですが、何回も繰り返していると今まで気づかなかったところにも目が向くようになって。最近、というかかなり前からずっともやもやしていることが、スカイツリーの映るカットが毎回入っている、ということです。スカイツリーがある大都会・東京を舞台に物語が描かれている、と場所を明確に言いたいのか、スカイツリーが完成したこの現代でこの物語が起きている、と時間という枠を明確にしたいがために映しているのか。はたまた深い意味はないのか。毎回毎回そのカットが使われているものですから、何か理由が隠されているのではないかと思わずにはいられません。野島作品ですし。深読みしすぎかも…?とも思ったりしますが、わたしは最終回の最後の1秒までそのヒントを探し続けます!(重)